都電として荒川線が残った理由
都電全盛期からの廃止
渋滞の影響で利用率が落ち、赤字基調で廃止議論に拍車
第二次世界大戦後の東京において交通の主役の一翼を担っていたのは都電である。
最盛期には214.4kmの営業路線を持ち、 40の系統を運行していた。1955(昭和 30) 年度において、
1日あたり174万 8,000人を輸送するなど、 無くてはならない足であった。
しかし、 もともと東京23区内の道路は狭く、 道路率(道路面積/土地面積)はニューヨーク (26%)
やベルリン (26%)と比較して10%と極めて低かった。
そこへ戦後に起こったモータリゼーションが進展した。
都内の自動車台数は、 1951(昭和26) 年には13 万台だったものが、 1960(昭和35) 年には61 万台
へと急激に増加し、 当然ながら交通量も激増し、 そうしたことへの対応が遅れたこともあって路上
駐車が横行するなど、 道路渋滞が顕在化してきた。
追い打ちをかけるように、 1959(昭和34) 年10月 20 日より都電軌道敷内への自動車乗り入れが緩和
されたことで、 都電も道路混雑の影響をまともに受けることとなってしまった。
都電の平均運行速度は1955(昭和30) 年の時点では 14.4km/hだったが、 1962(昭和37) 年には
12.9km/hへ低下し、 池袋~数寄屋橋間の17系統を例に取ると、 1955(昭和30) 年頃は往復 80~85 分
だったものが1967(昭和42) 年頃には 130~140分かかるようになっていた。
1965 (昭和40) 年度には輸送人員も1 日あたり124万8,000人まで減少し、交通局も赤字基調となり、
料金改定や合理化などの努力もむなしく、 1967 (昭和42) 年1月 1 日付で交通局は財政再建団体の
指定を受けることになる。
財政再建団体への指定に際して策定した「財政再建に関する基本方針」では、 1971(昭和46) 年度末
までに路面電車を全て廃止することが盛り込まれた。
さらに1967(昭和42) 年6月30 日の施政方針演説において、就任したばかりの美濃部亮吉知事が都営
交通の再建案の一環として路面電車全廃を追認する形になり、 これがその後の都電の命運を決めること
になった。このとき美濃部知事が結果的に荒川線を救うことになるとは誰も予想ができないことだった。
都電の全面廃止に先立ち、 営団地下鉄丸ノ内線と競合する新宿駅前~荻窪駅前間の都電杉並線は1963
(昭和38) 年11月 30 日限りで、 都営6号線(現・都営三田線)建設に支障するとして41系統の一部区間
(志村橋~巣鴨車庫前間)を 1966(昭和41) 年5月 28 日をもって廃止していたが、撤去計画による廃止
は第1次撤去として1967(昭和42) 年12月 9 日をもって9本の系統を廃止、以後第6次まで撤去計画が進捗、
代替バスのルート選定やバス車庫予定 地選定に手間取ったことから計画から1年遅れて1972(昭和47)年
11月11日をもって柳島および錦糸堀車庫と管轄の系統、それに27系統 の王子駅前~赤羽間を廃止、これ
により27系統の三ノ輪橋~王子駅前間と32系統の荒川車庫前~早稲田間、それに両系統を管轄する荒川車
庫だけが残された。わずか12.2km、車両数62両。風前の灯とも思われた。
荒川線の区間も廃止予定だったが、知事の発言で急転
残された区間は私鉄である王子電気軌道が 1911(明治44)年の開業以来、順次延伸してきた区間である。
1971(昭和46)年度までに全 線を廃止する予定だったが、路線の生い立ちから自動車交通の邪魔を受けな
い新設(専用) 軌道が全体の90%に及び、並行する道路が無かったことからバス代替をするにしても軌
道敷を 道路化するなど現実的ではないとされ、1972(昭和47)年9月の第5次計画変更でおおむね5年間の
暫定的存続が決まっていた。
専用軌道 が多かったことから運行時分も安定して遅延も少なかったこともあり、1971(昭和46)年度の
調査で27• 32系統を合わせて1日あたり10万7,000人の利用があり、沿線に深く定着した公共交通インフラ
として定着していた。
そんなことから沿線での存続の要望が強かったほか、そこへ1973(昭和48)年3月の都議会予算特別委員会
において美濃部知事はこれら2系統を将来 にわたり残す方向で検討することを明言した。
知事が公式の場でこうした発言をしたことから、 存続へ向けて大きく動くことになる。知事発言を受けた
交通局では、翌1974(昭和49)年5月 に基本方針として、
① 専用軌道とする
② ワンマン運転など省力化を図り能率的な運営 を行う
③ 乗客サーピスに努める
④ 運賃を改定する
⑤ 沿線及び停留場の緑化に努める
という基本方針を打ち出し、恒久存統へ向けた施設整備計画を決定した。
都議会公営企業委員会において知事は、①住民の利便性を図る、②東京の歴史を ひとつ残しておく、
という2つの理由から存続することを改めて明言し、赤字については一般会計から補てんして長く存続
させたい、とした。ここに、この区間の恒久存続が決定した。
1972(昭和47)年11月12日以降、比較的経年の浅い車両が荒川車庫に集められた。
陣容は7500形18両と7000形31両、それに6000形13両である。
27系統(三ノ輪橋~王子駅前)と32系統(荒川車庫前~早稲田)の2つの系統が引き続き運行されていたが、
乗り換えの不便があることなどから、1974(昭和49)年10月1日に統合して三 ノ輪橋~早稲田間の直通系統
とし、同時に名称も通称として定着していた「荒川線」を正式に 制定、以後「都電荒川線」として親しま
れることになる。
また、これを記念して10月1日は「荒川線の日」とされている。