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今さら聞けない都電荒川線の歴史とは

都電荒川線の歴史

 

目次

市電の誕生

チンチン電車の名で親しまれてきた都電は都民の重要な足で、最盛期には四十一系統、三五ニキロ

の路線を張りめぐらし、一日六百万人の乗客を運んだ。その後、急増する自動車の洪水と巨額な赤字、

地下鉄の普及のためにつぎつぎ廃止され、現在は荒川線だけが奇跡的に生き残り、いまも乗客を運び

つづけている。

 

わずか一路線ではあるがチンチン電車が走っているという事実はなぜか人々の心を揺り動かす。

懐古趣味だけとはいえない、ある情感がひそんでいるように思える。

旧二十七番と旧三十二番を統合した都電荒川線は、早稲田から三ノ輪橋までの十ニ・ニキロ、新宿、

豊島、北、荒川の四区内を走る。停留所の数は、両端の早稲田と三ノ輪橋を含めて二十九。

乗降客の多い停留所は、王子駅前、大塚駅前、町屋駅前の順で、それぞれ国電、私鉄、地下鉄と接続する。

 

都電の歴史は円太郎馬車にはじまる。浅草から新橋駅、新橋駅から品川へと、テトー・テト・テトーと

剛臥を響かせながら、目抜き通りを走って大評判になった。

 

このさまを落語家の円太郎が高座でまねして、これまた人気を博したので、「円太郎馬車」とよばれる

ようになった。明治十年(一八七七)ごろのことである。

 

この円太郎馬車を一歩すすめたのが馬車鉄道である。五代友厚、種田誠一らが明治十三年、市街の目抜

き通りに、レールを敷いて、そこを馬車が走る軌道馬車を計画、英国より馬車を輸入した。

明治十五年、認可がおり、新橋1日本橋間を走った。

その後、新橋ー本石町ー浅草橋ー浅草ー上野ー須田町1本石町ー新橋と路線を拡張し、やがて品川ー新橋間

にも馬車鉄道が走った。

 

こうして馬車鉄道は市街電車の出現まで、東京の大通りを走りつづけたのである。

 

市街電車(市内電車)は、明治三十二年(一八九九)、私経営で出願許可されて、三十六年九月には数寄屋橋

ー神田橋間に東京市街鉄道、新橋ー上野ー浅草間に凜ば電車鉄道(馬車鉄道の後身)、翌三十七年には土橋ー

お茶の水間に東京電気鉄道外濠線が開通した。

 

しかし、三社は競合して経営がうまくゆかず、明治四十四年に東京市が買収して、市電として再出発した。

 

 

 

市電から都電ヘ

これは三電競合時代のr東京地理教育電車唱歌』の冒頭の一節である。五十二番の靖国神社まで、東京市内の

町名、沿線の名所などが読みこまれていてなつかしい。

三電が市電になってからも愛唱されたという。

さて、東京市は電気局を設けて、市電を経営管理し、運行させた。明治四十四年(一九一一)八月一日のこと

であった。発足にあたって、尾崎東京市長はつぎのように訓示した。

 

「その運転区域は全市に互り、甚の関係恰も神経四脈の人体に於けるが如きものあり。従って之が経営の良否

は直接に市民の生活上に至大の影響を及ぼすのみならず、市の盛衰も亦是に固りて之を卜することを得べし」

その心意気のほどがうかがえる。

 

東京市電の軌道全長は約190キロ、一日あたりの乗客は約五十万人、車両台数は一〇五四両

(単車九二三両、ポギー車一三一両)であった。

 

その後、度璽なる「市電スト」などがあったが、まずは順調に隆盛の一途をたどった。

 

大正八年(一九一九)には車両台数は一五〇〇両と増加し、乗客も一日あたり約百万人と倍増している。

 

運賃値上げなどもあり、経営は黒字になったが、必ずしも良好とはいえなかったようである。

 

「東京の名物ボロ電車何時まで待っても満員でたまに空いたのが来たと思や駄目駄目と手を振ってそのまま停

めずに行きやがる何だこの糞ボロ電車奴」「パイノパイ節」にからかわれたりはしているが、それだけ

人気があったとはいえる。大正十年の市電は年間四億五千万人の乗客を輸送している。

 

さしも全盛をほこった市電も大正十二年の関東大震災、今次大戦の戦災で決定的な大打撃をうけた。

その都度、復旧はしたが、各種の交通機関(地下鉄、乗合自動車ー都バス・私営バス、私鉄、省線ー国鉄、

円タクータクシー)の競合で下降をたどった(この間、東京市が東京都となったので、市電から都電になっている)。

 

加えて都浩一の化にともない、市街電車のありかたもまた変化し、次第に姿を消さざるを得なかったのである。

 

昭和四十二年(一九六七)十二月、都電全廃の手はじめとして、銀座線など九系統八路線が廃止された。

 

「時計の針は夜の十一時を回っていた。銀座線最後の都電に別れを惜しむ四千人の群衆の間から、期せずして

『蛍の光』の大合唱がわき起こった」(「朝日新聞」)。

 

そして昭和四十七年十一月には、錦糸町駅前1日本橋間など五系統が廃され、荒川線を残すのみとなった

 

 

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