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都電雑司ヶ谷停留所とは

都電雑司ヶ谷停留所

都電雑司ヶ谷停留所は豊島区南池袋三丁目になる停留所である。

 

目次

雑司ケ谷霊園

「雑司ケ谷」に降リて、いま走って来たはうを振り返ると、正面に遠く西新宿の高層ビル街か見
えた反対側を狐リあおくと池袋サンシャイン60か真近くそびえている

 

雑可ヶ谷どいう地名か南北朝時代に南朝方の雑士か住みついだことから起こぅたらしいことは、
前の項で辿べたが、もう少し詳しくいうと、その雑七とは柳下氏•田rl氏(後には戸張氏)•長島氏
であるこの三家は『新編武蔵風上記稿』に雑司ケ谷村の旧家として記されている村内に鬼子母神な
どもあって、近在の村々のうちでは早くから間けた上地だった

 

停留場の東方は、江戸時代、広大な徳川将軍家の薬図になっていたそれか明治七年に東京市の共同
募地となり、雑司ケ谷霊園(豊島区南池袋四丁目)と呼はれるようになった東京で最初の公園低地
である

 

 

都営雑司ヶ谷霊園

鬼子母神前から雑司ヶ谷に至る間の、左右の街区が雑司ヶ谷である。この雑司ヶ谷周辺には、法明寺
を中心とする日蓮宗寺院こういう雑司ヶ谷の一部と南池袋四丁目の広大な地域を占めるのが、都営雑
司ヶ谷霊園である。

面積約十一万五四〇〇㎡。江戸時代は徳川家の薬園であった。明治初年(一八六八)種苗園となり、
同七年(一八七四)市の共同墓地になり、雑司ヶ谷墓地とよばれた。

いわば公園墓地のはしりで、墓地特有のあの陰湿さがないのがいい。

墓域は舗装された小道で区分され、それらを木立がおおう。かっこうの散歩道といえようか。

 

この霊園には夏目漱石をはじめとして多くの文学者や著名人の墓が多い。

 

 

夏目漱石の墓

 

 

 

 

名墓めぐり

ここには著名人の募か多い行苔門たりばったリに訪ねるより、霊園管埋事務所で園内の案内図をも
らおう裏は埋葬された著名人六十六名の氏名、職業、生没年、それと墓碑の位置か一院表になって
いるとても一度に全部はまわリ切れないのて、管理事務所から時計の針まわりで一部を紹介する。

 

ただし、どの墓を紹介するかは私の好み、り独断と偏見に任せていただく。

まず、すぐ北側の四号区に幕末に幕府の勘定奉行(大蔵大臣)だった小栗上野介忠順の墓がある。

 

十五代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見戦争に敗れて江戸に逃げ帰ったとき、幕軍の洋式軍制を推進してい
た上野介は徹底抗戦を唱えて、恭順派の勝海舟と対立した。

 

しかし肝心の慶喜が意気地なく恭順の意を表していたため、上野介は領地の上野国(群馬県)権田
村に引きこもった。

このとき上野介はあくまで抗戦しようとして、幕府の軍用金を隠して運んだという噂が立った。

 

もとよりこれはデマだったが、政府軍は上野介の心底を疑って逮捕し、明治元年四月六日、烏川の
ほとりで斬首してしまった。

一方、恭順した慶喜や海舟は後に爵位まで与えられ、天寿を全うしている。

霊園入口に近い一号区には耽美派の作家永井荷風が眠っている。『腕くらべ」や『澤東綺讀』が代
表作である。昭和三十四年没。

学生時代、私は『漫東綺讀』の舞台になった赤線地帯の玉の井のあたりをよく友人とさまよい歩いた。

 

同じ号区にラフカディオ・ハーンの墓がある。ギリシャ出身で、明治二十三年に来日、日本に帰化し
て小泉八雲と名乗った。日本研究に没頭し、随筆や創作にはげむ。代表作に「怪談jがある。

 

明治三十七年没。以前、島根県の松江に行ったとき、八雲の旧宅を訪ねたことがある。松江城と堀を
へだてた武家屋敷の一画にあった。

 

ロマン派の作家泉鏡花も同じ号区。尾崎紅葉の弟子で、「滝の白糸」『婦系図」など庶民的な義理
人情の世界を描いた作品は新劇や映画にもなってもてはやされた。昭和十四年没。

 

戦前・戦中派にはなにかと思いの深い陸軍大将東条英機も同号区に。昭和十六年十月、東条内閣を
組織して、十二月八日、日本を太平洋戦争に突入させた。

 

戦後、極東国際軍事裁判でその責任を問われ、昭和二十三年、絞首刑となった。

東条英機といえば、雑誌「文芸春秋」の平成二年十二月号に「昭和天皇の独白八時間」という記事
が掲載され、昭和天皇みずからの口から明かされた太平洋戦争に関する驚くべき証言として話題に
なった。その中に東条英機の人物について触れた部分がある。

「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る」
「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周到で中々良い処があった」

 

「私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない」

 

というあたり、言外に天皇が東条に好意を持っていたらしいことがうかがえる。

しかし、天皇が反対していた日独伊三国同盟を推進した松岡洋右については、

「恐らくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思はれる」

 

という手厳しい評をしている昭和天皇が、その三国同盟の延長線上にある太平洋戦争を遂行した東条
に対してどうして点が甘いのか、不思議な気がする。

 

この東条と同じ号区には映画俳優の大川橋蔵の墓もある。いまでもファンがお詣りに来るのか、花が
たくさん飾られていた。スターは死んでからも人気があるようだ。

東隣りの五号区には詩人サトー・ハチローの墓がある。墓碑にこう刻んである。

 

ふたりでみるとすべてのものは美しくみえる

 

その隣りの八号区の木蔭には抒情の画家竹久夢二の墓が。明治十七年、岡山出身。

十八歳で上京し、絵画に専念。病的なほど繊細で抒情的な画風から「夢二式」という語も生まれた。

 

昭和九年没。なんとなく早死にしたのではないかと思っていたが、享年五十一とは意外だった。

さらに東隣りの十六号区に劇作・演出家で芸術座を結成した島村抱月の墓がある。女優松井須磨子との
大恋愛は世間を沸かせた。

抱月が大正七年にスペイン風邪で急死すると、そのニカ月後に須磨子も後を追って自殺した。

抱月と一緒に葬られたいという遺書を残したが、やはり不倫は認められず、願いは叶わなかった。

南側の十五号区には、同一墓域に歌舞伎役者市村羽左衛門と尾上梅幸の墓が並んでいる。

十五代羽左衛門の家号は橘屋。世話物の第一人者だった。昭和二十年没。六代目梅幸は女形の名優で、
昭和九年没。

中浜万次郎も同じ号区。ジョン万次郎のほうが通りがいい。土佐の漁師だったが幕末の天保十二年
(一八四一)に嵐で難破し、アメリカ船に救われて渡米、ジョン・マンと呼ばれて西洋知識を学んだ。

 

万次郎は嘉永四年(一八五一)にようやく帰国することができた。鎖国政策をとっていた幕府は、本人
に密出国の意志があろうとなかろうと、たとえ難波であろうと、異国に渡った者は厳しく処罰してい
たのだが、万次郎の場合は時勢が幸いした。

 

異国船が日本の近海に出没し、ようやく海外知識の重要さが認識し始められた時期だったのだ。

 

開明派大名の島津斉彬に歓待され、生国の土佐に帰った万次郎は、武士に取り立てられ、幕臣として
軍艦操練所の教授となり、咸臨丸に乗って渡米するなど、開国時の日本にとって重要な活動をした。

明治三十一年没、五十五歳。

ふと気づくと、隣りに画家東郷青児の墓が並んでいた。甘く独特な女性像で大衆的な人気があり、
戦後の二科会の指導者だった。私は若いころに彼の『私の奇妙な友人たち」という著書の編集を担当
したこともあって、幾度か東郷邸を訪ねた。そのときに広い庭で遊んでいた女の子が、やがて歌手の
東郷たまみになり、いまは二科会の中心になっている。

その南側、十四号区には文豪夏目漱石の墓がある。さすが文豪といわれる人の墓だけあって、堂々た
るものだ。略歴はいまさら述べるまでもないだろう。

私が生まれて初めて読んだ純文学の小説は漱石の『坊ちゃん」だった。それまで、私が読むものとい
えば「少年倶楽部」をはじめ児童書ばかりだった。

 

たまに目にする大人の本といえば、家にあった立川文庫という講談本。それが、あるとき『坊ちゃん」
を読んで、大人の本はこんなにも面白いものかと、目から鱗が落ちるような思いをした。

この霊園はどこにいても墓石の向こうにサンシャイン60が巨大な墓石のように見上げられる。

やや異様な光景だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この記事を書いた人

都電で唯一の路面電車である荒川線で

毎日通勤しているサラリーマン

全国の路面電車も好きなので

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