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栄町停留場 梶原停留場とは

栄町停留場

栄町停留場は北区栄町にある停留所である。

 

 

梶原停留場

梶原停留場は北区上中里三丁目にある停留所である。

 

 

 

目次

洋紙発祥の地

紅葉の名所滝野川も幕末は騒然とした。元治元年(一八六四)幕府は外国船に備えて反炉と大砲錐
入水車の建造をはじめたが、維新を迎え、中途のまま放置された。

 

王子駅前をあとにした荒川線は栄町、梶原を経て荒川車庫へとすすむ。飛鳥山が右手に見える。

王子駅前停留所のすぐ近くに「洋紙発祥之地」という記念碑が立っている。

明治の初年、渋沢栄一が石神井川の水を利用し、抄紙会社(王子製紙会社の前身)を興し、西洋紙
を漉いた。

以来、このあたりは製紙をはじめとする近代工業の中心地帯となった。

日本の製紙の歩みを知るには、紙の博物館を訪れるとよい。

東京苔籍の束書文庫は平安時代からの教科占•関連資料トニ万点を収蔵している。

梶原停留所でおりると梶原銀座。その入口に「都電もなか」をつくっている店がある。

 

 

日本の製紙資料を展示する紙の博物館

 

 

福性寺と梶原塚

福性寺のある堀船は、昭和七年(一九三二)に旧王子町の大字堀之内と船方が合併した町である。

その読み方は町名(地名)の場合は「ほりふね」をとり、堀船小・中学校の名前などは、「ほりふな」
と読む。さかのぼれば堀之内は梶原堀之内村であり、船方(舟方)村である。

梶原堀之内村は『鎌倉大草紙』などによると、梶原美濃守道景の孫政景が陣屋を構えた地域という。

この政景を葬ったといわれるのが梶原塚である。

 

「梶原塚梶原堀内、豊島川の河曲堤の本にあり。この塚は太田美濃守入道資正の次男梶原源太政景の
墳墓なり。享保の頃までは石碑・石壇ありしが、洪水の時豊島川へ崩れ込みけるとて、今は小笹の中
に一株の松のみ存せり」(「江戸名所図会」。)

 

太田家から梶原家に入った政景ははじめ上杉謙信に属し、のち佐竹の幕下になったという。

この戦国時代の一武将は、乱世の変転ののち、豊臣秀吉の天下統一を迎えて無聯を感じ、仏門に入った
という。そのとき、館を寺としたのが福性寺らしい。これについては福性寺住職の故田久保周誉氏の
『堀船郷土史』にくわしい。

 

ところで梶原塚は、明治三十七年(一九0四)に福性寺境内に移された。船方(舟方)は占方、つまり
浦方の意という。深田の中に埋もれた船説もある。十二天の森、延命寺といった古社寺がある。

つい最近までは小松菜、胡瓜などの産地であった。

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この記事を書いた人

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