面影橋停留所
早稲田の次の停留所で、その名は神田橋にかかる面影橋からとられた。
神田川と胸突坂
早稲田低湿地の北辺を神田川が流れている。このほとりの砂利場(豊島高田)に、若き日の随筆家の
内田百間が住んでいた。
「大雨が降ると、すぐに辺り一面泥海になった。砂利場に近づくに従ひ、水は段々深くなって、下宿
の玄関に入るには、股の辺りまで水に漬けなければならない」(「砂利場大将」)。
現在も低湿地であることにかわりなく、神田川はときおり氾濫する。この低湿地の関口と目白台を結
ぶのが、胸突坂である。
『御府内備考』に、「この坂を下れば上水(神田川)のはたなり。あまり坂のけわしくて胸をつくば
かりなれば名付」とある。
胸突坂を下ったところに、水神社や関口の芭蕉庵がある。水神社は上水の守護神のみずはめまつ岡象
女を祀る。芭蕉庵はいうまでもなく、芭蕉の旧居のひとつ。延宝五年(一六七七)芭蕉は小沢卜尺の
あっせんで、幕府の神田上水工事の水役についている。
門の宗瑞らが「芭蕉庵」を建てたという。五月雨の句碑と芭蕉の文献を蔵している。
現在の庵は戦後に再現したもの。胸突坂や芭蕉庵へ行くには、早稲田停留所が近い。
面影橋は悌橋とも書く。かつては蛍の名所として知られたところである。

目白台と関口を結ぶ宗突坂
面影橋と姿見の橋
この停留場の名は、線路に沿って流れる神田川に架かる同名の橋に由来する。「江戸名所図会」には
「悌のはし」とある。
むかしはその上流に「姿見の橋」が架かっていたという言い伝えがある。平安朝の風流人在原業平が
東国に下ったとき、この橋から姿を水に映したところから名づけられたというが、いまはその名の橋は
なく、すぐ上流に架かるのは曙橋という。
また、面影橋の名にも、むかし、この橋を渡った先に刑場があって、処刑される罪人がこの橋を渡ると
き、最後の自分の面影を水に映して名残りを惜しんだという伝説がある。
また、別の説もある。
戦国時代初期の明応のころ(一四九二~一五〇〇)このあたりに住む和田靱負という武士にお戸姫という
美しい娘があった。靱負が外出している隙をねらって近所の関という者が押し入り、お戸姫をさらって
逃げたが、姫がこの橋のあたりで息も絶え絶えになったので、捨てて逃げてしまった。
そこへ杉山三郎左衛門という者が通りかかって姫を助け、自宅に連れ帰って養育した。そして姫は小川
左衛門という武士の妻となった。ところが小川の親友の村山三郎という者が姫に横恋慕し、小川を殺す。
お戸姫は従者とともに長刀をふるって村山と戦い、ついに夫の仇を討った。
しかし、夫を失った悲しみに耐えきれず、この橋のたもとに来て、
変わりぬる姿見よとや行く水に
映す鏡の影に恨めし
限りあれば月も今宵は出にけり
昨日みし人今はなき世に
という二首の歌を詠んで、川に身を投げて死んだという。この哀話にちなんで、後に姿身喬と名づけら
れたというが、これはあくまでも伝説にすぎない。
山吹の里弁財天
南蔵院も太田道潅山吹伝説地のひとつで、門前に「山吹の里」の石柱が立っている。古来、高田あたり
には「山吹の里」の伝承地が多い。『江戸名所図会』も「高田の馬場より北の方の民家の辺をしか唱ふ」
と記している。
南蔵院のあたりには伝説のヒロイン紅皿の住居があったとされている。
また、甘泉園児童公園の入口にも「山吹の里」の標柱泌立っている。甘泉園は旧清水家下屋敷で、
「山吹の井」というのがあった。
甘泉園の名はこの清水にもとづく。
現町名の山吹町も「山吹の里」に擬せられて明治五年(一八七二)に生まれた。西向天神社の参道は山吹
坂の名がある。紅皿が晩年出家隠栖し、小庵を結んだところとの伝えがある。山吹伝説には根強い人気がある。

紅皿ゆかりの「山吹の里」弁財天像