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荒川七丁目、荒川二丁目、荒川区役所前、三ノ輪橋停留場とは

荒川七丁目停留場

荒川七丁目停留場は荒川区荒川七丁目にある停留所である。

 

目次

荒川二丁目停留場

荒川二丁目停留場は荒川区荒川二丁目にある停留所である。

 

三河島

町屋は比較的早くから開墾され「町屋」ができたと思われる。この地域から鎌倉後期の板碑が
出土しているから、すでに中世には村落が形成されていたらしい。
とはいうものの中世村落の跡は不明である。文政年間(一八一八~二〇)松平定常はその著
「三治一覧」に、このあたり、田畝のうちに古墓多し、と害いている。

 

新住居表示で「三河島」という地名が消えた。戦国期以来の地名だけに惜しい。こういう移り
変りを東源寺の子育て地蔵はどう思っているのであろうか。

いつ行っても香華が手向けられている。厚い信仰をあつめているようである。

 

ところで旧三河島は鶴の飛来地として知られていた。幕府は飼付場をつくって鶴を保護した。

将軍吉宗・家斉・家慶らは「鶴御成」と称してたぴたびこの地を訪れている。

明治通り沿いの観音寺は「鶴御成」のときの御膳所にあてられ、三河島菜が献上されたという。

ともかく、「鶴御成」のときの気遣いはたいへんなもので、飼付場への立ち入りは禁止され、南風
のときは凧揚げが禁制にされたほどである。

 

こういう三河島の変貌ははげしく、いまは中小の工場、商店が混在し、鶴飛来のおもかげはまった
くない。都電通りと荒川(隅田川)の間の広大な地域が東京都三河島下水処理場である。

大正十一年(一九二二)に操業を開始した。この地に下水処理場が設けられた理由はいろいろとあ
るが、洪水のときにはいつも冠水する土地というのが大きな理由らしい。

この計画が発表されたとき、当然、反対の声があがったが、地主層が賛成したので実施された。

洪水のたびに被害をうけ、収穫も低い地であったので、地主たちは土地を難なく手離したものと思
われる。

 

三河島下水処理場

 

 

荒川区役所前停留場

荒川区役所前停留場は荒川区荒川一丁目にある停留所である。

 

観音寺と付近の寺院

鶴御成のとき御膳所となった観音寺(荒川四丁目)は天文年間(一五三二~五五)長遍僧都が
開いた寺である。そのたたずまいは清楚で明るい。

 

この地域にはこのほかにも寺院が多い。

耳なし不動で知られる仙光院には明治初年寺小屋が開かれた。当時の筆子(生徒)は男四人、
女十一人であった。

 

いまの明治通りは旧三河島村の村道とほぼおなじで、その南に地蔵堀があった。

その跡地に立つ石地蔵は、元文五年(一七四〇)浄正寺の住職が造立した。

宮地の六地蔵といい、この地蔵といい、この地の地蔵によせる信仰は層が深い。

なお、浄正寺には死者一五九人を出した三河島駅の国電二重衝突事故の慰霊塔が立ち、惨事を
いまにったえている。

宮地の六地蔵。赤い前掛けが印象的

 

 

三ノ輪橋停留場

三ノ輪橋停留場は荒川区南千住一丁目にある停留所である。

都電荒川線の始発停留所である。

 

浄閑寺新吉原総霊塔

浄閑寺は浄土宗で、山号は栄法山。遊女寺とか投げ込み寺とよばれた。開創は明暦元年
(一六五五)という。土手八丁といわれた日本堤の北端に位置しているのでかつては吉原
花街の絃歌のさざめきが風に乗ってきこえたという。

「日本堤聖天ぅみのわ町より笙輪に至るその間凡そ拾三町程の長堤なり。俗に八丁縄手と
いう」(「江戸名所図会」)。

さて、遊女たちの多くは、その薄倖な末路をこの浄閑寺に埋めた。

 

十数冊の過去帳では、法名を知るだけで、素性はもちろん正確な数もわからない。

「新吉原総霊塔」はこうした遊女たちの慰霊供養のため、寛政五年(一七九三)に立てられた。

この前には荷風の詩碑と筆塚がある。

 

遊女の霊を慰めるために造立された総霊塔

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この記事を書いた人

都電で唯一の路面電車である荒川線で

毎日通勤しているサラリーマン

全国の路面電車も好きなので

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