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東尾久三丁目、町屋二丁目、町屋駅前停留場とは

東尾久三丁目停留場

東尾久三丁目停留場は荒川区東尾久三丁目にある停留所である。

 

目次

満光寺の板碑

満光寺の草創は天正年間という。旧地は上野不忍池の付近で、現在地に移ったのは元和年間
(一六一五~一六二四)である。坂本村の名主二葉氏が開と伝えられる。

本尊は阿弥陀如来である。

本堂は鉄筋づくりであるが、朱塗りの唐破風の山門とよく調和している。
境内に南北朝期の板碑が立っている。

 

板碑は鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造立された。

卒塔婆の一種として発生したもので、のちには墓標の意義をも兼ねたが、供養が主であった。

 

満光寺の南北朝時代の板碑

 

町屋二丁目停留場

町屋二丁目停留場は荒川区荒川六丁目にある停留所である。

 

町屋駅前停留場

町屋駅前停留場は荒川区荒川七丁目および町屋一丁目にある停留所である。

京成電鉄や東京メトロの町屋駅に隣接している。

 

 

町屋村から町屋へ

町屋は比較的早くから開墾され「町屋」ができたと思われる。この地域から鎌倉後期の板碑が
出土しているから、すでに中世には村落が形成されていたらしい。
とはいうものの中世村落の跡は不明である。文政年間(一八一八~二〇)松平定常はその著
「三治一覧」に、このあたり、田畝のうちに古墓多し、と害いている。

 

慶長年間(一五九六~一六一五)の開創といわれ慈眼寺境内の石仏群は江戸期のものが多いが、
けっこう古びており、町屋の歴史を物語ろているようである。

町屋村時代、村の鎮守として勧請された町屋稲荷には、正保四年(一盃七)造立の庚申塔が
立っている。区内ではもっとも古い。

ともあれ江戸時代は田園地帯で、米のほかに大麦・大豆などを産出した。

特産に荒木田大根があった。明治になると近代工業が進出し、中小の工場が建った。

とはいうものの田畑の多い地域ではあった。

都市化がすすんだのは王子電車が開通してからである。

電灯が点ったのもこの時期、明治四十四年(一九一一)である。

今次大戦で被災したがいちはやく立ち上がり、現在の街区ができた。

昭和四十六年(一九七一)、千代田線の駅ができてからは、いっそうである。

京成町屋駅の近くに固広年という古寺がある。

太田道灌ゆかりの寺である。

道灌は江戸城内に泊船軒(亭)などを設け、詩歌をつくったのは有名。

ここにも「山吹の里」の伝承がある。

太田道灌ゆかりの泊船軒と山吹の里碑

 

町屋の停留所

町屋の変貌ははげしい。

昭和四十六年(一九七一)に千代田線町屋駅ができてからはなおさらである。

「町屋の一本杉」も、「荒木田の原」も住宅で埋まり、まったくの町屋になった。

駅周辺の商店街も活気にあふれている荒川線の専用軌道もこのあたりで終り、電車はしばらく
下町の台所すれすれに進む。

 

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この記事を書いた人

都電で唯一の路面電車である荒川線で

毎日通勤しているサラリーマン

全国の路面電車も好きなので

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