東池袋四丁目停留場
豊島区池袋四丁目にある停留所で有り、サンシャインシティへの最寄りである。
本教寺と巣鴨監獄
都電荒川線は、雑司ヶ谷をあとに東池袋へ向かう。途中、首都高速五号線をくぐる手前に服部嵐雪の墓
などで知られる本教寺がある。
蕉門十哲の一人に数えられる嵐雪は宝永四年(一七〇七)に没している。
歌川派の始祖といわれる歌川豊春の墓もある。豊春は歌麿と併称される浮世絵の大家で、浅草宇田川町
に住んでいたところから、歌川と名乗った。洋画の技法を取り入れた構図が目新しく、また色彩感にも
すぐれ、その美人画の評価は高かった。
さて、東池袋。
その前は池袋東、西巣鴨、日出町の各一部である。池袋副都心の表徴であるサンシャインシティは明治
二十八年(一八九五)、石川島から移された巣鴨監獄の跡地に造成されたもの。
極東軍事裁判の歴史の跡は、そばの公園に立つ石碑のみ。
さりげなく「永久平和を願って」と刻まれている。

ビルの谷間にたたずむ本教寺
サンシャインシティ
護国寺の境内からもサンシャイン60のそそり立っているのが見える。とにかく、池袋界隈では、
ふと上を向くと、どこからでもこの巨大な建物が目に入る。
六十階、二百四十メートルのサンシャイン60を中心にして、周囲にプリンスホテル、ワールド・
インポート・マート、文化会館などの高層ビルが建つ一帯はサンシャインシティ
(豊島区東池袋三-一)というシャレた名がついている。
このサンシャイン60には、以前、あるパーティに招ばれて展望台のすぐ下のレストランまで上った
ことがある。この取材を機会に、展望台に上がってみた。六百二十円也を払って、地下一階から分
速六百メートルという超高速エレベーターに乗ると、わずか三十五秒で展望台に着く。
ぐるり一巡して四方の景観を眺められるが、さすがに高い。目についた主なものを挙げると、まず
東には東京ドームや皇居、東京タワー、南にまわって新宿副都心の高層ビル群と富士山、西方には
高島平団地、北側からは飛鳥山公園、筑波山などが遠望できる。
営業は午前十時ー午後八時半までだが、夏は九時半まで延長されるという。
もらったパンフレットに夜景の写真が出ていたが、すぐ真下の池袋、遠くの新宿副都心のあたりは
不夜城のようだし、そのほかの部分は無数の宝石をちりばめたような景観だ。
巣鴨プリズンの跡
サンシャイン60からの景観はまさに現代の日本の繁栄を象徴する見事さだが、その足元には、こう
した繁栄をもたらした捨て石ともいうべきものが埋もれていることは、あまり知られていない。
このサンシャインシティは、かつて赤レンガ塀もいかめしい巣鴨監獄のあったところだ。
巣鴨監獄は明治二十八年に造られ、昭和十二年に東京拘置所となった。終戦後、連合軍に接収され、
巣鴨プリズンとして東条英機らA級戦争犯罪人が収容された。
これらの被告を裁く東京裁判、正しくは極東国際軍事裁判は昭和二十一年一月から始まった。
私が中学生のとき、登校の途中で、MPのオートバイに先導されて明治通りを池袋方面から走って来る
軍用バスをよく見かけた。巣鴨プリズンから市ケ谷の軍事法廷に通う戦犯たちのパスだった。
幌が下りていて内部はうかがえなかったが、あるとき、幌の端がわずかに上がって、中の人が外をの
ぞいているのを見た。
A級戦犯七名に絞首刑の宣告が下されたのはラジオで聞いた。
「デス・バイ・ハンギング」という声が非情なひぴきを持っていた。
そして東条英機ら七人がプリズン内の絞首台の露と消えたのは、昭和二十三年十二月二十三日のこと
だった。
満州事変から太平洋戦争に至るまでの日本の戦争が侵略であることを否定するつもりはないが、果た
して犯罪として裁かれるべき性質のものかどうか。
それ以前に列強がさんざんやり尽くしたことを、日本が遅れてやり始めただけのことではないかとい
う素朴な疑問を禁じえない。
後に私は「南十字星の下に」という本の編集をした。B.C級戦犯の手記を集めたものだ。
彼らの罪状の多くは捕虜や現地民の虐待や殺害だった。
容疑者の中には、ようやく復員して日本に帰りながら、日本の警察に逮捕されて現地に連行された者
もいる。
私が編集した本には、現地で裁かれ、弁護士もいない法廷で、予断と偏見に満ちた裁判官を相手に、
無実を訴えながら処刑されていった多くの戦犯たちの悲痛な叫ぴが充満しているような気がした。
要するにA級B級C級を問わず、戦後の連合国による戦争裁判は、勝者の敗者に対する報復といった面が
少なからずあったことを、さまざまな記録が物語っているのだ。
A級戦犯処刑台の跡はサンシャイン60の北隣りにある小公園である。その一隅に「永久平和を願って」
と刻んだ碑がある。