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学習院下停留所とは

学習院下停留所

学習院下停留所は豊島区の最南端の停留所である。

 

目次

神田上水

「面影橋」を出た電車はしばらく神田川と並行して走る。神田川は以前は神田上水と呼ばれた。
つまり水道である。

 

天正十八年二五九0)に江戸に入部した徳川家康は、まず飲料水の確保に乗り出した。

そして大久保忠行に命じて江戸付近の水質の調査をさせた。

忠行は井の頭池(武蔵野市・三鷹市)に目をつけ、さっそく開削に着手した。

まず、井の頭池から流れ出す妙法寺川と、善福寺池(杉並区)から流れ出す善福寺川を落合村で
合流させた。落合という地名はここから生まれたといい、現在も新宿区落合として残っている。

ここで合流した川を目白台の下で堰き止め、その水を上水道として神田方面に供給したので神田
上水と呼ばれたのである。

かつては江戸市民の命の水だったわけだか、いまこの川の水を人間さまか飲んだら逆に死んでし
まうだろう。川向こうは豊島区高田だが、むかしは砂利場村と呼ばれていた。

神田川の砂利採集場があったからだ。

『名所図会』の挿画にも「砂利場村」とはっきり書かれている。

電車は明治通りの手前で右に大きく曲がって、明治通り沿いに北上する。以前は、その曲がり角で、
高田馬場から来る都電と合流していたということはすでに述ぺた。

この曲がり角は荒川線の電車を撮影するのに絶好の位置で、よくカメラを構えている人を見かける。

この本の表紙も、この場所から狙ったものだ。「学習院下」方面から坂を下って来る電車の背景に
池袋のサンシャイン60がそびえている構図は絵になる。

 

電車は神田川を渡る。明治通りに架けられた橋は、高田と戸塚を結ぶ橋だから高戸橋という。

それと隣り合った鉄橋を渡って電車は「学習院下」に着く。

 

 

金乗院

面影橋をあとにした都電は、目白通りと交差する明治通りを北上するが、旧女子学習院の鉄門(重文)
を正門とする学習院女子短大は、南下した戸山三丁目にある。

 

この鉄門は明治十年(一八七七)、神田錦町の華族学から校の表門として鋳造されたものである。

 

唐草文様の和洋折衷の意匠で、明治の息吹が感じられる。

学習院下の西方台地に広がるのが学習院大学である。明治四十一年(一九〇八)、四谷から移転した。

乃木希典の院長時代である。

この停留所のすぐ南の道を東にたどると目白不動で知られる金乗院の前に出る。江戸五不動のひとつ
目白不動尊は、もと、関口の新長谷寺の本尊であった。

 

 

 

唐草模様が美しい学習院女子短大鉄門

 

 

丸橋忠弥の墓と由比正雪の乱

本堂と不動堂の間に墓地に上って行く道がある。その石段を上ってすぐ左手に青柳文蔵の墓がある。

青柳文蔵は仙台の出身。

江戸時代中期の医者だ。医業のかたわら集めた二万余冊の書籍で青柳文庫を開いた。

これが日本の図書館の初めという説もある。

そこからさらに上って行った一番奥に、由比正雪の乱の首謀者の一人として処刑された丸橋忠弥の
墓がある。墓石に覆いがあるが、以前は露天にさらされていたし、場所もちがっているようだ。

由比正雪の乱については『慶安太平記jが詳しいが、それによると忠弥は土佐(高知県)の出身で、
長曽我部盛親の子であるという。幼名は吉十郎といった。

大坂の陣に敗れて父盛親が死んだ後、吉十郎は母藤枝の実家、丸橋家に養われ、その姓を名乗った。
長じて宝蔵院流十文字の槍を学ぴ、腕を上げて江戸の水道橋に道場を開いていた。

その忠弥が当時高名な軍学者の由比正雪とともに天下に大乱を起こそうと企てたのは慶安四年
(一六五一)七月のことだ。

当時、巷には幕府の大名取りつぶし政策のあおりで四十万余もの浪人があふれていたが、幕府は
大名が彼らを召し抱えるのを禁じ、さらには江戸から追放しようとした。

 

都会の江戸ならば何か仕事にありつけようし、士官の手づるをつかむチャンスに恵まれるかもし
れない。手内職をしてもなんとか食っていけようが、江戸を出たら野垂れ死だ。

 

折りから三代将軍徳川家光が死んで四代家綱の代になった。将軍の代替わりでなにかと世の中が
騒然としている機に乗じて、正雪は一味する三千の浪人をひきいて決起しようとした。

首領の正雪は駿府城(静岡市)を乗っ取り、副首領の忠弥は江戸城を奪取するという手筈がとと
のい、正雪は駿府に向かった。

ところが、•この計画はあっけなく漏れ、まず忠弥が捕縛され、次いで駿府の正雪も幕吏にかこ
まれて自刃してしまう。

芝居では、忠弥が江戸城の堀の深さを計ろうと石を投げ込んでいるところを、老中(幕府の大臣)
松平伊豆守信綱に見とがめられ、それが謀叛発覚のきっかけになったことになっているが、実は
一味の中から訴人が出たらしい。

 

八月十三日、忠弥とともに捕らえられた一味三十余人は江戸市中引きまわしのうえ、鈴ケ森で
傑刑となった。

金乗院にある忠弥の墓は、忠弥の子孫が建てたものとされ、「長曽我部忠弥秦盛澄」と本名が
刻んである。

傍らに長曽我部一族の墓なるものもあって、なんとなく本物めかしいが、実は明治五年に松村
操らによって建てられた偽墓だという綿谷雪の考証がある。

そういえば「慶安四年八月十日」と処刑された日も誤って刻まれている。

しかし、有名人ほどこうした現象が起こりがちだ。丸橋忠弥の芝居を上演するとき、俳優がか
ならずお詣りに来るそうだから、あまり詮索するのはヤポというものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この記事を書いた人

都電で唯一の路面電車である荒川線で

毎日通勤しているサラリーマン

全国の路面電車も好きなので

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