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荒川車庫前、荒川遊園地前、宮ノ前、熊野前停留場とは

荒川車庫前停留場

荒川車庫前停留場は荒川区西尾久にある停留所である。

目次

荒川車庫

梶原をすぎると荒川区である。沿線は下町そのもので、都電も生活路線の色彩を帯びる。

健康な生活のにおいがただよう。ひと昔前の「東京」が、一瞬、現出する。が、この光景は長くつ
づかない。そして、また|。断続する「東京」をもとめて荒川線に乗る人は多い

荒川車庫前でおりる都電ファンも、「失われし時をもとめて」という人らしい。

唯一の都電車庫であるから当然といえる。都電の主流となっている七〇〇〇形、七五〇〇形にまじって、
六〇〇〇形のなつかしい車体も見られる。

経営の合理化のためチンチン電車はツーマンからワンマンに転換せざるを得なかった。

このワンマン化によって都電から車掌がいなくなった。

これとともに終戦直後につくられた六〇〇〇形も隅に追いやられた。

ワンマン電車に更新するには費用がかかりすぎたのである。かくて六000形は路上から姿を消した。

それだけにその車体によせる都電ファンの思いは強い。飛鳥山公園には六000形が酒かれ、昔をしの
ぶよすがとなっている。

現在、ワンマン電車として活蹂している七五〇〇形は改造だけですんだが、七五〇〇形は台車部分を残し
て車体をそっくり更新した。

七五〇〇形の改造費は当時の金額で一億五千余万円、七〇〇〇形は五億九干四百余万円を要したという。

チンチン電車をなつかしむ人々は、ワンマン電車を味気ないというが、それでもないよりはいい。

 

荒川線の基地荒川車庫

 

 

荒川遊園地前停留場

荒川遊園地前停留場は荒川区西尾久にある停留所である。

荒川遊園地

「荒川遊園地前」から荒川(隅田川)に向かう。100mほど行くと荒川遊園だ。

途中れ人じの古びた煉瓦塀がいい。明治の初めに創設された煉瓦工場の跡地である。

戦時中は高射砲陣地が設営されたという。

なにげない風物にも歴史が刻まれているものである。

 

荒川遊園もそういう軍用地であった。戦後、荒廃していたが、昭和二十五年(一九五〇)、
都が都市計画荒川公園として指定、同年八月「区立荒川遊園」として開園。

猿や孔雀などの動物舎、家鴨が遊ぶ池、釣り堀、メリーゴーランドなどの乗り物と変化
に富んだ施設がある。中学生までは無料である。月曜日と年末年始が休み。

 

 

荒川遊園の釣り堀。花菖蒲が美しい

 

宮ノ前停留場

宮ノ前停留場は荒川区西尾久二丁目にある停留所である。

熊野前停留場

熊野前停留場は荒川区東尾久にあり、日暮里舎人ライナーの駅に隣接した停留所です。

条里制・尾久三業地

小台停留所から西側の尾久西小学校一帯には、明治の初めまで条里制
の跡が見られた。大化改新のときの遺構というから古い。

旧小台通りに面した呉服店の玄関わきに、「条里南道」と刻まれた石標が立っている。

そして、宮ノ前。都電通りから宮ノ前商店街に入ると黒板塀に囲まれた小粋な料亭が目に
つく。

尾久三業地である。いわゆる「阿部定事件」はここでのできごと。

この尾久に花街ができたのは大正初期という。それにしても大きな料亭が多い。

熊野前停留所の南の尾久小学校のわきに立つ石碑は、飛行機の墜落事故で死亡した
「杉野中尉殉難の碑」である。

 

 

熊野前をゆく都電電車

 

尾久は古くは小具、越具、奥とも害かれた。「隅田川南岸の沖積地に位置し、地名の由来は
明らかでないが、豊島郡の奥の意という伝承がある」(『日本地名大辞典』)。

江戸期に上・下尾久村。明治二十二年(一八八九)に尾久村。大正十二年(一九〇三)に尾久町。

昭和三十八~四十一年(一九六六)の住居表示によって現在は東・西尾久に分れている。

江戸以来の野菜の産地で、荒川区内で最もおそくまで農村部であった。

大正二年(一九一三)-の王子電気軌道の開通で、急速に開け、大正七年(一九一八)の
「北豊島郡誌」に、「人口の増加著しきを加へ大小の工場また年と共に増加するの勢いあり、
耕地は漸く狭まり行くの形勢ありとす」と見える。

王電では沿線に蛍を放って乗客を集めたという挿話が伝わっている。

さて、花蔵院は兵言宗の寺で、上尾久村代々の名主江川家が檀越であった。

その関係で江川塾が寺内に開かれた。江川氏代々の墓もある。

いわば花蔵院は上尾久(東尾久)の教育の中心であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この記事を書いた人

都電で唯一の路面電車である荒川線で

毎日通勤しているサラリーマン

全国の路面電車も好きなので

オススメあれば教えてください!

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